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追悼 マイケル・ウィナー
1月21日、映画監督・プロデューサーのマイケル・ウィナーさんがお亡くなりになりました。77歳でした。



イギリス出身のマイケル・ウィナーさんはBBCのテレビ番組のアシスタント・ディレクターとして業界入りし、1960年に『Shoot to Kill(原題)』で 監督デビュー。1972年にマーロン・ブランド主演の『妖精たちの森』を監督。


1972年にチャールズ・ブロンソン主演の『メカニック』を監督(2011年には、ジェイソン・ステイサム主演でリメイク版も制作)。以降『シンジケート(1973年)』や『狼よさらば(1974年)』『ロサンゼルス(1982年)』『スーパー・マグナム (1985年)』と復讐に燃える男チャールズ・ブロンソン主演の『デス・ウィッシュ』シリーズを監督した。

『メカニック』

『狼よさらば』

『ロサンゼルス』

『スーパー・マグナム 』

2007年にバルバドスでカキを食べたことでビブリオ・バルニフィカス感染症とよばれる細菌感染症に襲われ、死の淵を彷徨ったマイケルは、19回の大手術を受けて足を切断する寸前までに至った。順調に回復したものの、その後さらにMRSA感染症を患う。さらに2011年には、体内の免疫システム低下によって医師団から食すことを控えるように指示されていたにも関わらず、生肉のタルタル・ステーキを食べて食中毒に陥り、4日間に渡って入院して集中治療を受けている。マイケル・ウィナーさんは昨年、担当医から肝臓病により余命1年半から2年と宣告されていた。

2011年に55年の交際を経て元ダンサーのジェラルディーン・リントン‐エドワーズさんと結婚した。

復讐に燃え、皆殺しする映画を撮らせたら右に出るものはいませんでした。マイケル・ウィナーさんのご冥福を心よりお祈り申し上げます。
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追悼 大島渚

1月15日、映画監督の大島渚さんが肺炎のためお亡くなりになりました。80歳でした。

大島さんは京都大学卒業後、1954年に映画会社の松竹に入社し、大船撮影所で野村芳太郎監督らの助監督を経て、僅か5年という異例の早さで1959年に『愛と希望の街』で監督デビューを果たす。当初『鳩を売る少年』というタイトルだったが、松竹幹部から題名が暗くて地味だと指摘され、本人の知らないうちに『愛と希望の街』へと改題され公開された。


1960年に『青春残酷物語』『太陽の墓場』を監督しヒット。性や暴力を描いた社会派の作品が話題となり、日本映画の新しい波「ヌーベル・バーグ」と評されて、映画革新の代表的な存在になる。しかし、自身はそのように呼ばれることを望んではいなかったらしい。



1961年、日米安全保障条約に反対する安保闘争を舞台にした『日本の夜と霧』を、公開4日後に松竹が大島に無断で上映中止したことに猛抗議し、松竹を退社。同時に松竹を退社した妻の女優の小山明子、大島の助監督の田村孟、脚本家の石堂淑朗、俳優の小松方正、戸浦六宏らで映画製作会社「創造社」を設立する。


1962年、『天草四郎時貞』の興行的失敗を契機として、テレビの世界にも活動範囲を広げるようになる。1963年に元日本軍在日韓国人傷痍軍人会を扱ったドキュメンタリー『忘れられた皇軍』を監督。第1回ギャラクシー賞受賞する。1964年には脚本を務めたテレビドラマ『青春の深き渕より』が芸術祭文部大臣賞を受賞した。


1965年映画製作に復帰、低予算で芸術的な映画を製作する日本アート・シアター・ギルドと提携、1966年に『白昼の通り魔』、1967年に『忍者武芸帳』『日本春歌考』、1968年に『絞死刑』、1969年に『新宿泥棒日記』、など政治的な色合いを強く持つ話題作品を矢継ぎ早に公開し国内外の認知度も急速に高まったが、1972年『夏の妹』を最後に自身らが設立した「創造社」を解散、映画製作資金を稼ぐためのテレビ出演などの活動の日々が続く。

『白昼の通り魔』

『日本春歌考』

『絞死刑』

1975年には新たに「大島渚プロダクション」を設立、1976年に若松孝二がプロデュースで、阿部定事件を題材にした日本初のハードコアポルノ『愛のコリーダ』を監督する。カンヌ映画祭で大絶賛されるが、日本公開では、過激な性描写をめぐり映倫の介入によって映画が作品として意味をなさないほどの大幅な修正を受けることになった。また、映画のスチール写真などを掲載した単行本を警視庁が摘発、大島さんも刑事被告人として法廷に立った。そこで大島さんは「私は『芸術かわいせつか』という論争を一切拒否する。私にとって、わいせつは存在しない。わいせつは検察官の心の中にある」と真っ向から起訴事実を争い、最後には無罪を勝ち取った。『愛のコリーダ』は2000年にリバイバル上映されたが、修正個所は大幅に減ったものの、作品にはボカシ修正が入り日本では現在でもオリジナルを観ることはできない。


『愛のコリーダ』により国際的な評価を確固たるものにしてからは、1978年『愛の亡霊』、1983年『戦場のメリークリスマス』、1986年『マックス、モン・アムール』など外国資本もしくは海外で公開されることを前提とされる作品が中心となっていった。吉行和子主演の『愛の亡霊』も『愛のコリーダ』と同様、性描写で男女の情念を描いた作品で、不倫の妻が愛人と共謀して夫殺しに走るという内容である。『愛のコリーダ』より、ある程度性的描写を抑制し、前作ほど話題にならなかったが、カンヌ国際映画祭監督賞を受賞した。


デヴィッド・ボウイ、坂本龍一、ビートたけし主演の『戦場のメリークリスマス』では第二次世界大戦をテーマにした戦争映画でありながら、戦闘シーンは一切登場せず、「異常状況のなかで形作られる高雅な性愛」というホモセクシュアルをテーマにし、第36回カンヌ国際映画祭に出品され、パルムドール最有力と言われたが受賞は逃した。


シャーロット・ランプリング主演の『マックス、モン・アムール』では美貌の英国大使館員夫人とマックスという名のオスのチンパンジーの愛情と周囲の困惑を描いた。


映画製作の一方、日本映画監督協会の理事長を1979年から1996年まで務めた。「テレビは映画よりはるかに影響力がある」とも語り、コメンテーターとして積極的に出演。討論番組「朝まで生テレビ!」では、生放送中に「バカヤロー」と共演者に怒りをぶつけ、番組を盛り上げた。



1996年『マックス、モン・アムール』以来、約10年ぶりの新作として製作発表が行われてから1カ月後、映画100年祭で講演する北アイルランドに向かう途中、ロンドン・ヒースロー空港で脳梗塞のために倒れ、製作は約2年間にわたり中断した。
右半身マヒや言語障害の後遺症が出たが、懸命なリハビリを続けクランクインでは車いす姿でメガホンをとり、見事、現場復帰を果たした。1999年に、幕末の京都を舞台に新選組を男色の視点から描いた時代劇『御法度』をビートたけし主演で公開を果たすが、カンヌ映画祭では賞を得ることは出来なかった。またビートたけしのほか、崔洋一も役者として参加しており、二人に撮影現場でのサポート役を託していたとされる。


1990年、結婚30周年を祝うパーティーで祝辞を予定していた友人の野坂昭如さんの指名を忘れ、泥酔していた野坂さんに壇上で殴られ、大島さんもマイクで殴って応戦し、ワイドショーを賑わせた(のちに互いに反省文を書き送り合った)。


昨年、『愛のコリーダ』を製作した盟友・若松孝二さんがなくなったばかりで、間もなく大島渚さんもお亡くなりになるとは…。「誰もやらないことをやる」信念を貫いた異端児、大島渚さんのご冥福を心よりお祈り申し上げます。「バカヤロー」

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追悼 デヴィッド・R・エリス

1月7日、映画監督のデヴィッド・R・エリスさんがお亡くなりになりました。60歳でした。

エリスさんは、梅津泰臣原作による日本の成人アニメ「A KITE」の映画化を手掛けており、その製作のためメインキャストであるサミュエル・L・ジャクソンと共に現地に滞在していたという。死因についての詳細は明らかになっていない。

エリスさんは俳優としてデビューし、その後スタントマンに転身。その後スタントコーディネーターとして活躍し、1986年からはADや助監督として『マトリックス・レボリューションズ』や『ハリー・ポッターと賢者の石』といった映画のアクションシーン製作に関わるようになった。

1996年にファミリー向け映画『奇跡の旅2/サンフランシスコの大冒険』で監督としてデビュー。2003年『デッドコースター』を監督。同作は監督代表作として商業的成功を収め、『ファイナルデスティネーション』シリーズのシリーズ化を決定づけた。


2004年にキム・ベイシンガー主演のサスペンススリラー『セルラー』を、2006年にはサミュエル・L・ジャクソン主演の動物パニック『スネーク・フライト』を監督する。


2009年に『ファイナル・デッドサーキット 3D』、2011年に『シャーク・ナイト』と、3D作品も多く手がける。

誰よりも木曜洋画劇場が似合う作品を手がける監督でした。デヴィッド・R・エリスさんのご冥福を心よりお祈り申し上げます。

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追悼 ティーナ・マリー

12月26日、歌手のティーナ・マリーさんが心臓発作のためお亡くなりになりました。54歳でした。

1965年3月5日カリフォルニア州サンタモニカで生まれたティーナ・マリーさんは、1976年にモータウンと契約し、リック・ジェームスに見出され「Wild and Peaceful」でデビュー。白人ではあったが「アイボリー・クイーン・オブ・ソウル」と称され、黒人層からも評価を得た。グラミー賞にノミネートされるなど80年代に活躍するが、90年代以降は低迷期を迎える。しかしヒップホップアーティストから数多くサンプリングされたことにより再評価され、2005年にグラミー賞にノミネートされ表舞台にカムバックを果たす。昨年リリースしたアルバム「Congo Square」が遺作となった。

ティーナ・マリーといえばこれかな「Ooo La La La」。

フージーズの「Fu-Gee-La」ネタですね。


そして「Square Biz」。

Firmやエリック・サーモン、メイスらがサンプリングしてました。代表してFirmの「Firm Biz」をどうぞ。


そして「I Need Your Lovin'」。


最後に「Lover Girl」。

曲が始まる前に「フー!」って言うのが印象的でした。

黒人層からもっとも支持された女性白人シンガーといっても過言ではないでしょう。ティーナ・マリーさんのご冥福を心よりお祈り申し上げます。

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追悼 ジャン・ローラン
12月15日、映画監督、作家、俳優のジャン・ローランさんがお亡くなりになりました。72歳でした。

ジャン・ローランさんは1938年パリに生まれた。父は舞台俳優をしていたが、生まれて間もなく両親は離婚、ジョルジュ・バタイユの愛好家の母に引き取られる。幼いころからジャン・ローランさんは母からジョルジュ・バタイユの寝物語を聞き、様々な芸術に興味を示し映画監督を志す。

15歳の誕生日に母からタイプライターを贈られたジャン・ローランさんは脚本を書き始める。翌年、映像製作会社に就職しドキュメンタリー映画の制作に携わる。後に徴兵し(アルジェリア独立戦争?)映像部署に配属され、後にカンヌ映画祭で最高賞を受賞するクロード・ルルーシュと出会う。ローランさんはルルーシュと数本の映画を制作、ルルーシュが演出を担当し、ローランが編集を担当したそうだ。

退役したローランはニュース映像の制作会社に就職する。自分の映画を撮りたいと思ったローランは仲間とともに映画を自主制作する。その仲間の中に「愛人/ラマン」のマルグリッド・デュラス女史がいたらしい。

その後ローランは積極的に政治活動に参加、スペインの反フランコ政権のプロパガンダ映画を制作し、国内外の政治集会で上映された。政治活動の傍ら作家としての活動を始める。

1969年にセクシー吸血鬼映画「Le Viol Du Vampire」を監督。作品は一部から熱狂的な支持を得るが、大半の観客から支持されず、上映後に怒号が飛び交いスクリーンにゴミがぶつけられることもあった。観客から殴り殺されるのではと怯えていたローランだが、懲りずにその後も次々にセクシー吸血鬼映画を監督する。またローランは本番ありのハードコアも多く手がけている。ハードコアポルノで金を稼ぎ、自分の撮りたい映画を撮るという涙ぐましい努力を重ねる。ローランの作品は一貫していて、それが「シュールで退屈でエロ」である。それが芸術というものならばきっとそうなのであろう。

ローランさんはゾンビ映画も3作品手がけている。
ブリジット・ラーエのおっぱいが素晴しい、1978年の「殺戮謝肉祭/屍肉の晩餐」。イタリアから特殊効果のスタッフを呼び寄せ、今までのフランス映画にはない過激な残酷描写があるため、興業的には成功を収める。本作品がフランス映画初のスプラッター映画と言われている。


1980年の「ナチスゾンビ/吸血機甲師団」。この映画を撮るはずだったヘスス・フランコが撮影前日に失踪したため、休暇中だったローランが渋々メガホンを握る。しかしまったくやる気がなかったため、作品自体もやる気の無さが見事に伝わるひどい出来だった。そのためクレジットにはJ・A・レイザーという偽名を使うが、ローランが監督をしたと噂が世に広まり、結局ローランはこの後映画が売れなくなる。そのため金を稼ぐためにハードコアポルノを撮ることになる。なぜ噂が広まったかというと、監督名は偽名だったのに、本名で役者として出演したため?。


1982年の「リビング・デッド・ガール(ゾンビクイーン/魔界のえじき)」。ゾンビ化したレズビアンの女と、ゾンビ化した恋人を見捨てることの出来ない女の切なく悲しい物語。前作があまりにやる気が無かったため、今作品では気合を入れて作ったようで、ローラン作品の中では一番まともな作品なんじゃないでしょうか・・・あくまでローラン作品の中でね。



芸術に恵まれた環境に育ち、芸術を愛しエロを愛したジャン・ローランさんのご冥福を心よりお祈り申し上げます。
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追悼 レスリー・ニールセン

11月28日、俳優のレスリー・ニールセンさんが肺炎とそれにともなう合併症のためお亡くなりになりました。84歳でした。

1926年カナダに生まれたレスリー・ニールセンさんは、第二次世界大戦時にカナダ空軍の空中砲兵隊員として訓練を受け、退役後トロントの演劇学校で演技を学び、ラジオDJなどをした後にアメリカに渡る。1955年「The Battle of Gettysburg(原題)」のナレーターでデビューし、1956年「放浪の王者」で映画初出演する。1972年「ポセイドン・アドベンチャー」で船長役で出演するなど、アクション映画でシリアスな演技をしていたが、1980年「フライング・ハイ」の出演をきっかけにコメディアンとしての才能を開花させ、1988年「裸の銃を持つ男」で大ブレイク。ハリウッドを代表するコメディアンとなる。

役者としての最後の出演は「Spanish Movie(原題)」でのキャメオ出演(医者役。転機となった「フライング・ハイ」も医者役でした)。遺作は来年公開予定のアニメ映画「The Watermann Movie(原題)」の声優としての出演。


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追悼 今 敏

8月24日、アニメーション監督で漫画家の今 敏さんが膵臓癌のためお亡くなりになりました。46歳でした。

今 敏さんは北海道出身。釧路湖陵高校時代にアニメーターを志し、武蔵野美術大学で美術を学んだ。スタジオミュージシャンでスティールギターの名手として知られる今剛さんは実の兄に当たる。

1984年、大学在学中に週間ヤングマガジンにて「虜−とりこ−」で漫画化デビュー。ちばてつや賞を受賞する。大学在学中は大友克洋のアシスタントとして働き、1991年に大友克洋原作の実写映画「ワールドアパートメントホラー」の漫画を発表している。
ワールドアパートメントホラー (ヤングマガジンコミックスデラックス)
1998年に「パーフェクトブルー」で監督デビュー。ベルリン国際映画祭招待作品。


2002年に「千年女優」が日本公開。第5回文化庁メディア芸術祭アニメーション部門大賞を受賞(千と千尋と神隠しと同時受賞)。ドリームワークス配給で世界で公開される。


2003年に「東京ゴッドファザーズ」を発表。第7回文化庁メディア芸術祭アニメーション部門優秀賞を受賞。


2006年、大学在学中に出会い、多大な影響を受けた筒井康隆原作の「パプリカ」を映画化。ベネチア映画祭のコンペ部門に出品する。



2007年、NHKのアニクリ15にて「オハヨウ」を放送。



これまで今さんは大人向けの作風であったが、初めての子供向け作品「夢見る機械」の制作中だった。


今さんが代表を務める会社KON'STONEを立ち上げたばかりで、これからの活躍が楽しみだっただけに非常に残念です。今 敏さんのご冥福を心よりお祈り申し上げます。
paprika

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追悼 デニス・ホッパー

5月29日、俳優、映画監督、映画プロデューサー、芸術家のデニス・ホッパーさんが、前立腺癌による合併症のためお亡くなりになりました。74歳でした。


1936年カンザス州ドッジシティに生まれたデニス・ホッパーさんは、高校時代に美術への感心を抱き、演劇や朗読に才能を発揮し俳優の道へ進む。1955年にスターシステムでワーナーブラザーズと7年契約し、テレビドラマ「メディック」でデビュー。1955年に「理由なき反抗」、1956年に「ジャイアンツ」と立て続けにジェームス・ディーン主演作に出演する。ディーンとは人生観や役者に対しての考え方で共鳴していたが、1955年にディーンは交通事故で死亡。ディーンの死は若きホッパーさんに多大な影響を与えた。ディーン同様、問題児扱いされていたホッパーさんは1958年、「向こう見ずの男」の撮影中、ヘンリー・ハサウェイ監督や配給会社と大喧嘩をしワーナーブラザーズとの契約解除、ほぼハリウッドを追放される形で、ニューヨークに活動の拠点を移す。尊敬するディーンにならってニューヨークのアクターズスタジオで演技に磨きをかけ、当時ニューヨークから発信されていたモダンアートやポップアートを吸収した。1965年に確執を起こしたヘンリー・ハサウェイ監督と和解、ヘンリー・ハサウェイ監督作ジョン・ウェイン主演の「エルダー兄弟」に出演する。
1969年に監督、脚本、主演で「イージーライダー」を発表。カンヌ映画祭で新人監督賞を受賞し映画は大ヒット、アメリカン・ニューシネマの旗手となる。しかし70年代、映画制作会社との確執、ドラッグ中毒やアルコール中毒による入退院もあり、目立った活躍はなく表舞台から遠ざかっていった。1986年にデビッド・リンチ監督の「ブルーベルベット」で4文字ワードを連呼するキチガイ役を熱演し復活。以降、キチガイ役を演じさせたら右に出る者はいない性格俳優として活躍した。絵画や写真に関しても造詣が深く、日本で個展が開催されたこともある。

2009年前立腺癌に冒されていることを公表。闘病のさなか、5人目の妻との離婚の手続き、資産分与が泥沼化していた。
2010年癌が骨にまで転移し余命わずかと公表される。そんなホッパーさんにうれしいニュースがもたらされる。「ハリウッド・ウォーク・オブ・フェームの星」の栄誉を授与されハリウッド殿堂入りを果たす。担当医師から特別に授与式の出席を認められる。しかし授与式ではやせ細りかなり衰弱している様子だった。

5月29日に永眠。ホッパーさんの遺言に従い、遺体は「イージーライダー」の撮影場所である、ホッパーさんが心の故郷と呼ぶ、ニューメキシコ州タオスに埋葬される。

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追悼 ゲーリー・コールマン

5月28日、俳優で「アーノルド坊やは人気者」でアーノルドを演じたゲーリー・コールマンさんが、自宅で転倒し頭部を負傷したことによる脳内出血のためお亡くなりになりました。42歳でした。


ゲーリーさんは1968年にイリノイ州シカゴ郊外に生まれた。出世作で養子にもらわれる役を演じていたゲーリーさんですが、実生活でもフォークリフト運転手の父と、看護婦の母の元に養子となる。
先天性の障害があり、腎臓機能障害に伴う成長不全から小人症となり身長は142センチだった。

1974年に子役デビューし、1978年から「アーノルド坊やは人気者」に出演。裕福な白人家庭の養子になる黒人少年アーノルドを演じ人気者になる。番組は8年間で189話放送される。



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追悼 ロニー・ジェームス・ディオ

5月16日、ヘビーメタル・ロック歌手のロニー・ジェームス・ディオさんが胃がんのためお亡くなりになりました。67歳でした。

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